昔話1 「92年 独立をした時」
誰かの人生の可能性を広げることができたらと、僕の昔話をつづることにしました。
常に、僕は平均的人間であると自覚していました。特別何かに優れた才能を発揮していたわけでもありません。
そんな普通の僕ですが、いろいろな事を実践してきました。そこには、自分なりの決断、意志があったかと思います。
人生、迷うことは多々ありますが、目指す頂上は同じです。ただ登る道が違うだけだと思います。
そんな人生の一つの道を紹介させていただきます。
時は1989年 人生初めての就職。
89年イギリス・イタリア留学から帰り、シュリロトレーディングという輸入商社のスポーツ用品部に90年1月に就職しました。スポーツ用品部は、ウインドサーフィンの世界トップブランドを取り扱っていました。入社した時はスノーボードの輸入を始めたところでした。当時スノーボードはほとんど知られていなく、滑走できるスキー場もごくわずかでした。
その会社での僕の担当は、スノーボードの営業、そして海外メーカーとの交渉の補佐、外人ライダーのガイドなどでした。
look snowboard,okay boots,ups boots, firitch bindingなどを輸入していました。当時サポートしていた日本ライダーは今ではスノーボード業界の大御所にもなっている人もいます。営業での担当は東日本全てを担当して、関東から北海道まで。スノーボードはやったこともなく、就職して初めて見るものでした。営業を担当していたので売り上げを伸ばす必要があるのですが、簡単にはいかなく。それでも、着実に数字は伸びてきました。
そんなある時、当時の部長と宴会をしたとき、僕は 小さい会社でも大きい会社でも社長は社長。同じだという持論をだしました。これは社長という立場の責任感は同じであるという事であったと思います。 上司はそれは違うという考えでした。言葉のお互いの意味合いが違っていて、言葉のとらえ方が違っていたのかもしれないですが、僕のこの社長は社長という考えは、後々にも大きく影響しました。 結局、社員は平でも課長でも、部長でも永遠に社員であり、責任をおうとすれば自分に対してだけです。社長は大きい会社でも小さい会社でもトップにいるということは自分だけでなく、社員を(社員の家族を)、会社全体を、関係各社に対しての責任を感じるのです。
92年1月まだスノーシーズンは終わりではないときに、全体会議がありました。そこで、僕に対して、
営業&マーケティング から、マーケティング専属になるよう辞令がでました。シーズン途中で、営業数字をまだ伸ばせるという時でもあり、この辞令に対して 僕は即答はできず、「考えさせてくれ」といいました。それに対して、部長はこれは「辞令」だと言いました。 それから僕は数日考えたのですが、この部長の言葉の意味は、yesか辞めるかという選択肢しかないとう意志表示だったかと思います。血気盛んなやりての部長でしたので、まさか辞令に対して、即答しないことなど考えられなかったかと思います。もちろん、マーケティング専属になることは、それは栄転と考えてもよかったかとは思いますが、僕としては「辞令」という意志に対して、自分の人生は自分で決断したいという意志がまさったのか?
社員は永遠に社員で、社長の気持ちにはなれないということが、僕を独立へと後押ししたかと思います。
そして、毛筆で辞表をだし、92年2月に辞めました。そして、日本初のスノーボードビジネスコンサルタントとして、開業しました。これは、自分で会社をおこすほど資金も能力もなかったのですが、顧問として社長と接触することで社長の立場を少しでも感じたかったからです。そして、千葉の取引先に、年間10万で顧問契約をしました。
常に、僕は平均的人間であると自覚していました。特別何かに優れた才能を発揮していたわけでもありません。
そんな普通の僕ですが、いろいろな事を実践してきました。そこには、自分なりの決断、意志があったかと思います。
人生、迷うことは多々ありますが、目指す頂上は同じです。ただ登る道が違うだけだと思います。
そんな人生の一つの道を紹介させていただきます。
時は1989年 人生初めての就職。
89年イギリス・イタリア留学から帰り、シュリロトレーディングという輸入商社のスポーツ用品部に90年1月に就職しました。スポーツ用品部は、ウインドサーフィンの世界トップブランドを取り扱っていました。入社した時はスノーボードの輸入を始めたところでした。当時スノーボードはほとんど知られていなく、滑走できるスキー場もごくわずかでした。
その会社での僕の担当は、スノーボードの営業、そして海外メーカーとの交渉の補佐、外人ライダーのガイドなどでした。
look snowboard,okay boots,ups boots, firitch bindingなどを輸入していました。当時サポートしていた日本ライダーは今ではスノーボード業界の大御所にもなっている人もいます。営業での担当は東日本全てを担当して、関東から北海道まで。スノーボードはやったこともなく、就職して初めて見るものでした。営業を担当していたので売り上げを伸ばす必要があるのですが、簡単にはいかなく。それでも、着実に数字は伸びてきました。
そんなある時、当時の部長と宴会をしたとき、僕は 小さい会社でも大きい会社でも社長は社長。同じだという持論をだしました。これは社長という立場の責任感は同じであるという事であったと思います。 上司はそれは違うという考えでした。言葉のお互いの意味合いが違っていて、言葉のとらえ方が違っていたのかもしれないですが、僕のこの社長は社長という考えは、後々にも大きく影響しました。 結局、社員は平でも課長でも、部長でも永遠に社員であり、責任をおうとすれば自分に対してだけです。社長は大きい会社でも小さい会社でもトップにいるということは自分だけでなく、社員を(社員の家族を)、会社全体を、関係各社に対しての責任を感じるのです。
92年1月まだスノーシーズンは終わりではないときに、全体会議がありました。そこで、僕に対して、
営業&マーケティング から、マーケティング専属になるよう辞令がでました。シーズン途中で、営業数字をまだ伸ばせるという時でもあり、この辞令に対して 僕は即答はできず、「考えさせてくれ」といいました。それに対して、部長はこれは「辞令」だと言いました。 それから僕は数日考えたのですが、この部長の言葉の意味は、yesか辞めるかという選択肢しかないとう意志表示だったかと思います。血気盛んなやりての部長でしたので、まさか辞令に対して、即答しないことなど考えられなかったかと思います。もちろん、マーケティング専属になることは、それは栄転と考えてもよかったかとは思いますが、僕としては「辞令」という意志に対して、自分の人生は自分で決断したいという意志がまさったのか?
社員は永遠に社員で、社長の気持ちにはなれないということが、僕を独立へと後押ししたかと思います。
そして、毛筆で辞表をだし、92年2月に辞めました。そして、日本初のスノーボードビジネスコンサルタントとして、開業しました。これは、自分で会社をおこすほど資金も能力もなかったのですが、顧問として社長と接触することで社長の立場を少しでも感じたかったからです。そして、千葉の取引先に、年間10万で顧問契約をしました。
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